写真の変質について

昔から絵画を描く人は、曖昧な目というカメラを通して、あるいは経験から構築した景色から、それを忠実に、あるいは故意に変質させ、イメージを創出し、それをまた曖昧な手を通して絵という形で表現してきた。表現に利用される素材も基本的な油絵だけでなく多種多様なものが用いられ、その表現のダイナミックレンジを印刷で表すことはできない。写真との対比を前提に、ざっと絵について言えばこうなる。
では写真はどうなのか? 写真はカメラ(レンズとフィルム含む)からのイメージを現像しプリントする。カメラの時点でもプリント段階でもイメージを操作する可能性は残されている。(色々流派はあるにせよ、)作品として写真に取り組む場合……自分の表現として写真に取り組む場合……イメージの操作は故意に行われる。
この操作に限度は特になくて、極端な例を挙げれば写真を下地に絵を描いてみせても故意のイメージ操作の範囲内ということになる(プリンタが自分なんです)。が、一般にこれは絵という認識だろう。逆に極端に操作しないとは何か。
まず、それをするには万能のカメラと表示装置が要る。万能のカメラは、そこにある光景を残らず写しとる。そして、万能の表示装置によってそのイメージを余さず出力する。人間によって操作されるのはフレーミングだけということになる。そこには操作というものが殆ど介在しない。これは写真(カメラ)メーカーが目指す一つの理想であると思う。ただ
現実問題として、写真はとても現実の情報をすべて取り込んでいるとは言い難い。撮影者の意図とは別の次元でそもそもかなりの情報が欠落してしまう。
欠落した情報に対して人間が心動かすことができないのか、という問いの答えはもちろんNOで、絵画も写真も、その欠落した情報に撮影者あるいは画家が何を欠落させ、何を残し、何を強調するのかという操作を行い、それが少なくとも撮影者の心にとって、ある圧縮(デフォルメ)された操作結果として結実する。このイメージの圧縮作業というのが素材と製作 者とを結びつける。
圧縮作業は観賞者に撮影者の切口、見方を提供する。ある素材、絵の場合想像も含む素材をどう料理するのかが製作者の個性となる。
絵画の進化は主に「調理法」の進化の歴史と言える。モチーフの移り変わりももちろんあったと言えばあったけど、新たな調理法の発見が絵画を牽引してきたと言っても そこまで過激な論では無い。現在の絵画は純粋調味料のみによる絵画あたりまで進化したところで、新たな調理法を発見できずもがいているというか。
写真は、そもそもこの調理法がカメラによってかなり固定されているので、写真は(芸術的進化は)主に被写体によって進化してきた。被写体に表現のすべてを打込む。場合によっては被写体自体を加工する(ライティング)。風景写真では、適切な状態になるまでひたすら待つこともある。何にせよ、その瞬間の被写体と自分の表現をシンクロさせ、撮ることによって情報を欠落させ、被写体のある側面、視点を際だたせる。それを通して、ある感情を共有することができたら、それは自分の写真表現ということになる。

※ここの結論では偶発的なものを省いた。ある時、写真では、被写体が撮影者を越えて訴える時がある。でも、やはり基本的には撮影者の選択によるものだと思う。それも含めて、意図とすれば、被写体とのシンクロ、被写体からある視点を切取る、という中に偶発的なものも収めて良いのかもしれない。